この町は特にハトが多い気がする。
今日はナチス・ドイツの強制収容所に向かう。いつも通りのどんより。宿の人に聞くと毎年こういう訳ではないらしいんだけどなー。
本日お願いしているガイドの方からご丁寧にクラクフからの行き方の添付まで頂いていた。拠点となって皆が宿泊するのはこのクラクフだが実はオシフィエンチムという町の中にそれらはある。クラクフ本駅の東口のバスターミナル(Malopolski Dworzec Autobusowy)から1時間に一本くらい出ている。14ズウで約80分(2ズウ安くてマイクロバスが出ているけど乗り心地かなり悪いみたい。)。チケットはターミナルの共通チケットオフィスみたいなので買えた。
バスでは一番前の席を陣取り出発を待つ。日本人もチラホラ。日本語のガイドは決して多くは無いので恐らく同じ目的であろう。4人組の日本人が乗ってきた。その先頭の人を見て「あつしさん」僕は無意識に、しかし興奮は感じつつ声を掛けていた。先日日記にも書いていたが南米コロンビアの日本人宿で一緒だった人!まさかの同じツアー!大陸を越えての偶然の再会は初めてだー\(^o^)/ってか奇跡じゃね?
1人で話を聞くのもいいのだが意見などを話し合える、また一緒に受け止める人ができて有り難かった。ということであつしさんの友人の方々に混ぜてもらい5人で参加しました。というかトータル30人の日本人が集まった。日本人の公式ガイドは今日お世話になる中谷さんおひとりとの事なので多くの人が集まるのは必然なのかもしれない。ポーランドにもこんなに日本人がいたんだな!参加者のバックグラウンドもとても面白かったので後で少しだけ書こうと思う。
ということで入場。なんとガイド無なら無料で入れるらしい。伝えて行こう、という気持ちが見えますね。入ると特に風が抜けるのでかなり寒かった。クラクフよりも寒いので思っているよりも重装備で行きましょう。
僕も多少予習して入ったのだが今日はあまり歴史の事は書かずに展示について少しだけ書こうと思う。気になった人はネットで調べてみて歴史を読んだうえで事実についていろいろ考えてみてください。
門の上の文字は働けば自由になる、という内容が書かれているらしい。もちろん嘘。ここを潜った人々は不安でしょうがなかったに違いない。
言われればそういうところなのかと思うが、パッと見窓もあるし普通の家に見えなくもないな、と思った。
しかしこういう風に無機質に規則正しく並んでいるとやはり違和感と不気味さを覚えるかも。実際に使われていたと考えると、今いる場所の当時の光景を勝手に想像してしまう。
至る所に電流が流れる有刺鉄線が配置されている。男女でも分けられていたらしい。
ここから先に行ったら撃たれるゾーン。
ここは死の壁と呼ばれており、逃亡者や収容所内でのレジスタンスに対しての銃殺に使われた壁らしい。今では多くの献花がされている。
建物の幾つかの中はいろいろな展示品が置かれている。敷地内に入ってすぐのところには音楽隊が新しく来た人々を迎え入れる写真が展示されていたがもちろんそういうのは建前。世に出た写真は建前の物のみでリアルな写真は撮ることも禁止されており、証拠となる写真は多くないらしい。そういうものや収容者が着させられていた服、遺留品などが展示されている。廊下一面に亡くなった方の顔写真が張られているところもあった。
この写真の奥には最後に証拠隠滅の為に爆破されたガス室が写っており貴重な証拠となったらしい。
所内では看守たちに精神的ダメージを与えないため、また所内での不満を募りにくくするために収容者に同士で見張らせたり食事の配膳などをさせたらしい。またガス室で死んだ人々の遺体の処理も収容者が行った。
ユダヤの人が90%以上を占めたが他にも同性愛者やジプシー(ヨーロッパの移動型民族を指すらしい)、障害者、政治犯も含まれていたんだって。入所すると腕に番号が刻まれ、またどういう人々なのかを識別するためのマークが付けられたらしい。これも所内で派閥を作って一致団結して反旗を翻すのを防ぐため。
実際のガス室。
上に開いてる穴からガスが送り込まれたらしい。
ガス室の模型。どうすれば効率よく沢山の人を殺せるのかも研究されたとか。
実際に使われたガス。ノミやシラミの退治にしようされるものだったらしい。じきに収容所に入りきらないくらいの人々が送られてくると約75%の人が記録にも残されずにガス室に入れられた。
亡くなった方々の遺留品。当時材料にするために刈られた収容者の髪の毛の束も大量に残されていた。また亡くなった人の銀歯などのようなものも集めたらしいがそれらは最終的に個数などでは無く重さで管理されたらしい。
大量の眼鏡。
実際に使われていた部屋。
所長はなんと上記の宿舎の本当に目と鼻の先にある家で家族で生活をしていたらしい。彼にも彼の生活があったということ。終戦後ここで処刑されたという。
ここで今まで居た第一収容所を出て第二収容所ビルケナウにバスで向かう。第一だけでは収容しきれなくなり、第二、第三と建設されたのだ。そもそも地名もアウシュビッツではないのだがドイツ語で言いやすくするためにアウシュビッツと名付けられたらしい。この建物と線路の光景は見たことがあるかもしれない。
上の建物に上ると一望できるのだが本当に広い。これでもさらに建設を続けていたらしい。これらは収容所となっているが占領地での労働力確保、民族浄化のモデル施設になり規模を拡大させていった。民族浄化。なんというか言葉だけ聞くと恐ろしく感じるが、今回の見学を通して現在の難民問題、ヘイトスピーチ、二重国籍の問題、LGBTの事、トランプさんのことだとかが決してそこまでかけ離れている問題ではないと思うようになった。また完璧なる島国で日本人以外に慣れていない日本人からしたらよりセンシティブな問題かもしれない。
長い時間かけてこのような車両に押し込められて到着した人々はすぐに「労働者」「人体実験の検体」「価値無し」に分けられた。「価値無し」と別けられた場合にはすぐにガス室に送られた。
ここが証拠隠滅の為に抹消しようとしたガス室。
アンネの日記でも知られるアンネが収容されたタイプの建物。
洗面所。
トイレ。中に隠れて生き延びた子供もいたらしい。
約3時間のガイドで見たものはこんな感じです。今回は敢えてあまり自分の気持を書かないようにしました。終ってから他の参加者とも話したのですがやはり今回これらを見たから事実が良くわかった、というようなものでは無いと思うのです。少しかじった程度の僕が簡単に説明できるものでもない。ガイドの方も話の中で結論を出すというよりも敢えてあなたはどう考えますか?というスタンスでした。当時のナチス側の人々の気持ち・背景、ユダヤ側の人々の気持・背景、時代、他国の干渉など多くの視点から見ないと大切なことを見落としてしまいそう。
言葉を選ばずにシンプルに感じたままを言うと、僕はアウシュビッツでは可愛そうなユダヤ人を見て、イスラエルでは自国を愛するユダヤ人を見て、パレスチナでは占領や嫌がらせをする悪いユダヤ人を見ました。でもそうは言ってもこういう歴史のバックグラウンドを知るとそれらが深く繋がりあって単純に可愛そう、とか悪い、とか言えなくなります。今回のこのホロコーストも世界的に見てもかなりの先進国であり、民主主義の国であったドイツで起こった事。今回の訪問でわかったとは思っていませんが、自分も民主主義の国に生きる一人としての責任を感じてもっと見識を深め、まずは自国の事に関心を持っていこうと感じました。極端な例に思うかもしれないけど特に自分の国が弱っているときはヒトラーの様な思想の人を自分たちが持ち上げてしまうということも考えられるもんね。
第二収容所を歩いているとなんとポーランドに来てから初めて太陽を青空を見た。なんでもないことなのかもしれないけど僕には意味があることのように思えた。暗い過去ではあるけれども今回見たことを元に考えて、明るい未来に繋げるきっかけにしていってね、というような。←単純すぎる?笑。本当にすぐにそう感じたんだよね。
ガイドも終わり折角なので参加した一部の方々とお茶をしてゆっくりと話をしてきた。ドイツの外資系企業の方、社会の問題を取り上げている映画監督、テレビ局の方、金融関係に努める方、そして独身無職28歳が花を添えるというとても面白い集まりだった。その他にもハンセン病関係のボランティアの方々やダークツーリズム関係の編集者の方々、同じく長期旅行中の方々などとてもバラエティに富んだ人々が今日の参加者だった。
夜はクラクフまで戻ってきて仲良くなったメンバーとレストランへ。短期旅行者だけだったら中々ないチョイス。でもまぁ折角の面白い出会いだしたまにはいいだろう。短期旅行の人たちとこれだけ会うのも僕にとっては中々ないので逆に新鮮。感覚のズレを感じるのがまた楽しかった。スープを頼むか迷っていたら「15ズウ(400円)で悩むんだ!」と笑われてしまった。そうだよな短期で来てたら数百円なんてケチらないもんな。
とはいってもポーランド餃子のピエロギとビールを飲んでも1000円くらい。